阪神淡路大震災で被災
1995年1月17日、阪神・淡路大震災が発生しました。神戸市にある当社工場は地震による建物設備の被害に加え、液状化現象による地盤沈下も発生し、操業できない状態に陥りましたが、創業者 故中島泰介の「一日も早く工場の煙突から煙を出せ」の号令を受け、工場再開に社員一丸で邁進し、わずか一週間で稼働・出荷を果たしました。
液状化のつめ跡
液状化により敷地全体が沈み工場そのものが浮き上がった
東日本大震災への支援
〈 2011年3月11日(金)に発生した東日本大震災に際し当社の取った行動について 〉
アーモンドフェスティバル
当社は、震災の翌週末、19日(土)・20日(日)にアーモンドフェスティバルを控え、準備を重ねていました。
震災後、すぐに東京支店勤務社員の安全を確認し、14日(月)を迎えました。
その頃には震災被害の大きさに世の中はすっかりと「自粛ムード」に覆われていました。
当社のアーモンドフェスティバルも開催するかどうかという問題が持ち上がり、最初は「阪神大震災を経験した我々は、神戸以外が被災していなかったから早く復興できたのだ。だから阪神大震災経験者の我々は感情論に流されて自粛してはいけない。」とあくまでも予定通りの開催をする判断をしました。
しかし、事態は刻々と変化していきました。首都圏を中心に消費者が食糧買い集めの行動に走ったため、お得意先様から「品物がない。別の品物でもいいから供給してほしい」との要請が相次ぎました。
その要請に応えるためには、平日の残業に加え、休日も生産しないと間に合わないということがわかり、震災という非常時への対応を優先するため、19日・20日を工場生産日に切り替え、アーモンドフェスティバルを中止することにしました。
アーモンドフェスティバルでの販売用に在庫を多めに確保していたことが緊急要請の役に立つことになりました。
さて、アーモンドフェスティバルの告知・案内はすでに各方面に発送されています。急遽アーモンドフェスティバル中止の告知を行いました。
しかし、中止告知がどの程度伝わるかは不安でした。
「中止を知らずに来られる方はあるだろう」、また「販売する品物が足りない」からアーモンドフェスティバルを中止しているのに、会場で「ナッツを販売する」のはおかしいと考え、「お茶だけを提供する」庭園開放をさせていただくこととしました。
阪神電鉄の深江駅前にはアーモンドフェスティバルの中止と、シャトルバスの運行中止をお知らせするために当社社員が立ち、アーモンドフェスティバルに代えて庭園開放を行った結果、約3,500人の方にご来場いただきました。
例年のアーモンドフェスティバルと異なり、一人ひとりの方とゆっくり語らう時間をもつことができましたが、一番多く聞こえてきたのは「ほっとした」という声でした。
東日本大震災以降すべての報道は震災一色となり、
後にテレビによるPTSDとまで言われたほどに、映像で流れてくるのは悲惨な街の姿と悲しい被災者の声ばかりでした。
阪神地域においては、それらの映像はテレビの向こうの世界ではなく、多くの人が阪神大震災の体験をフラッシュバックさせていました。
例年であればこの時期は春の足音がニュースに流れ、冬から春になる明るい気分の時期です。
南の国で桜が咲いたり、幼稚園で卒園式があったり。
入学準備もすっかり整いました・・・等々。しかし、提供されるのは土色と灰色、壊れた街並みと瓦礫。
そんな中で当社の庭園開放に来られた方は「花を目にし」気持ちが和らいだとおっしゃって下さいました。例年にもまして、2011年は花がよく咲いていました。
声をかけた方の中には、「阪神大震災で全財産を失った」という方もいらっしゃいました。怪我もされたそうですが、その後回復され今は周囲の支えで元気に暮らせるようになったから、毎月少しづつ寄付をしている、といった方もいらっしゃいました。
花の力の大きさとともに、希望を持って災害を乗り越えることの大切さを感じた2日間となりました。
支援物資の供給
震災から10日余りして、生産に余力ができ始めました。
阪神大震災時に全国からの支援物資で生活をさせていただいた我々としては、できる範囲でその恩返しをさせていただくのが人の道です。
世間では義援金の募集がどんどんと始まっていました。しかし、被災地で今すぐ必要なのはお金ではありません。
いずれお金は必要でしょうが、今必要なのは食べることと当面住むことです。
幸い当社の製品は災害時の非常食としては扱いやすく栄養豊富ですので、支援物資として最適です。多くの人に行きわたるように、小袋のポーション製品を支援物資とすることにしました。
在庫にあったものだけでは少なすぎるので、2ラインを1日稼働させて支援物資の製造を行いました 。
また、阪神大震災経験者として、単に物を送るだけではなく、同様の震災を経験し10年かけて復興した地からの心も送りたいと考え、製品の箱に手書きのメッセージを封入することにしました。
社員もパートも、その家族にも手伝ってもらい、準備したメッセージカードに書き込みを行いました。
実は問題はここから先にありました。
行政は県を窓口に支援物資を受け付けていましたが、阪神大震災の経験上、行政の支援物資はバランスよく届かず、被災地の周縁部までしか届かないだろうとの思いから、「直接届ける機能」を探しました。
個人的なつてやインターネットを活用して様々なボランティア団体を探し、そこを通じて送り始めました。
中小企業同友会、青年会議所、神社やお寺、現地の高校、また現地で被災しながら地域活動している個人・・・。
完全に満足できる結果とは言えませんが、当社ができる精一杯の支援をしました。
また、支援物資は当社製品だけではありませんでした。
かねてから「こんなに堅牢なダンボール箱は日本にはない」と取り置いていたアメリカ・ニコラス社のピスタチオの空き箱も淡路から直接ワゴン車で現地にボランティアに往復している個人に託しました。
被災し体育館などで集団生活をする人にとっての間仕切りやタンス代わりに重宝されたと聞いています。
その後、数か月たって、当社の支援物資を受け取った方から何通ものお礼状を頂きました。
アーモンド苗と種の提供
個々のケースではありますが、アーモンドフェスティバル用に準備していた苗木とアーモンドの種を送りました。
震災被害は東北地方に留まらず、関東地方でもかなりの被害がありました。
震災から年を経て、それらの苗や芽が育ち、春先に花を咲かせてくれればと願っています。